“ジョン・ガリアーノ”の人生は、波乱万丈そのものです。
1960年、イギリスの植民地”ジブラルタル”で生まれた彼は、6歳の時に父の働くロンドンへと移住します。
1984年には、ロンドンにあるファッションの名門”セントラル・セント・マーチンズ”のモード科を首席で卒業。
この時の卒業制作コレクション『アフガニスタンとヨーロッパの理想』がロンドンにあるブティック”ブラウンズ”のショーウィンドウに飾られ、後に5年間の契約を結びます。
その翌年には、自身のコレクションを制作。

ジョンのデザインするものはどれも奇抜で独創的であり、ジャケットをボトムにアレンジしたものや、バイアスカットと呼ばれる、織り目を斜めにカットし作ったものなど、とにかく人目を惹くものばかりでした。
ですが、90年代当時の主流は、ダメージ加工のデニムや、ネルシャツを着崩すなどの、いわゆるグランジファッションばかりでした。
そんな中で、ジョンのコレクションは次第に人気を落とし、一時の低迷期に入ってしまいます。

転機となったのは、ブランド”ジバンシィ”の”ユベール・ド・ジバンシィ”が引退、後継のデザイナーとしてジョンを抜擢したこと。
実際には、ブランドはグループ”LVMH”傘下となっており、その折にジョンに白羽の矢が立ったのですが、一流ブランドである”ジバンシィ”の後継者に、当時はあまりヒットにも恵まれずにいた彼の起用に、賛否両論はあったといわれています。

ジョンはその後、”ジバンシィ”のデザイナーとして二度ばかりのコレクションを発表。
翌年には”ディオール”のデザイナーに抜擢。
“ジバンシィ”のデザイナー就任以前より、流行に流されない彼のスタイルは一定の評価を受けていたのです。
2007年には、フランスの最高勲章である”レジオンドヌール勲章”に叙されます。
しかし、2011年にパリで人種差別発言をしたとして、また話題を呼び、ジョンは長年勤めた”ディオール”をやめ、そして、自身のブランドからも身を引くこととなりました。

現在では再起を誓い、パリにある新進気鋭のブランド”マルタン・マルジェラ”(後に”メゾン・マルジェラ”と改名)のディレクターに就任し、新たな一歩を踏み出しています。

幾度と挫折を味わいながらも、自身のスタイルと信念を貫き、流行さえも動かした彼の手腕は、また今後新たな時代の中心となりうる日も近いかもしれません。

 

Image Credit: preen
http://preen.inquirer.net/71499/john-galliano-announces-maison-margiela-going-fur-free